「承認欲求」という言葉が何かと話題になりますが、最近では「何者かになりたい症候群」に侵される人が増えていると聞きます。
「何者かにならなきゃいけないと思い込んでる若者たちを一つの壺に放り込んで共食いさせて、残った者が神霊となるワナビー蠱毒が社会のいたるところにある」
「最初から何者かになる必要に追われない人もたくさんいたけど、何者信仰がこれほどまでに蔓延するくらいには何者信者たちは溢れている」
引用:note(篠原かをりさん) 何者かにならなきゃ症候群
そんな今の時代に、肩の力を抜いて、多くを求めずに生きる『平凡でそこそこ幸せな人生のススメ』についてお話ししていきます。
「何者かになりたい」その想いの先にあるものは…
平凡な人生を送り続けることこそが幸せにつながると考えてきた私は、「何者かになりたい」という漠然とした野心を抱える人たちの気持ちを知りたくて、しばらくネットをさまよっていました。
そこで感じたのは、大きな野望を抱いて生きることは夢があって素晴らしい反面、求めすぎて自分を追い込みすぎた結果に幸福度が下がるケースがあるということです。
強い信念と切り離せない感情
私はコラムやエッセイを通して他人の頭の中にある言葉に触れるのが好きで、暇な時間を見つけては芸能人・一般人など関係なく読み漁っています。
先日、ネットサーフィン中に偶然たどり着いたライターさん(30代女性)のコラムを読んで、軽い衝撃を受けました。
「私はまだ何者にもなれていない」
「(略)こんな思いでやってきたのに、いまだに世界を変えられていない」
まず一番に感じたのは、自分と同年代の女性への「この人すごい!」という尊敬が交じった驚きの気持ち。
❝書く❞という仕事を通して世界を本気で変えたいという想いがそのコラムから伝わり、こんなに強い信念を持ちながら仕事をする人って単純にカッコイイなと思いました。
その人がどんな考え方をしているのかに興味を持ち、他の記事も読んでみました。
「(自分の信念と違うこと)を言った友人に対して、けんか腰で言い返した」
このような内容の記事がいくつか続きました。
読み進めるうちに、私の頭にふんわりとクエスチョンマークが浮かび上がってきました。
「信念が強すぎることによって、自分を追い込みすぎていない?」という疑問です。
私からしたら、そういう食事の席で(友人たちの前で)相手に対してそんな風に言い返さなくてもいいんじゃない?と思う部分もありまして。
「何者にもなれない焦り」に似た苛立ちを、本人が気づかないうちに感じているんじゃないかなと感じたのです。
「何者」かになった若者が振り返って思うことは?
何者かになりたい気持ちを分解してみると、自分の中でそうありたいと願う気持ちと同時に、他人からの評価を気にする気持ちもどこかにあるのではと想像します。
冒頭の篠原かをりさんのnoteの話に戻ります。
篠原さん自身、過去に周りからの評価の低さに納得できず「何者かにならなきゃ症候群」に苦しんでいた一人でした。
結果から言うと、20代前半で個人名義の本を5冊出してメディアでも活躍している篠原さんは、若くして「何者」かになりたいという希望を叶えた人ですね。
ところが、その篠原さんがそうなってわかったことは「この病は百害あって一利なしということだ」といいます。
何者かにならなくても十分満ち足りていて、誰に勝たなくても幸せだってもっと早く教えてくれればよかったのに。
さらに、「他者からの評価に依存すると幸せはとても不安定なものになる。幸せは自分の中だけで完結しなければならない」ということに気づいたそうです。
そして、このnoteは以下のように締めくくられています。
また他者に評価されることでしか自分を保てない日が来るかも知れない。それでも、やっと見つけた何者でもない自分自身を絶対に手放したくないと思う。
実際に何者かになった人の後日談だからこそ、この言葉には重みが感じられました。
何かを成し遂げる前も後も「自分が幸せだと感じられればそれで十分」なのであって、良くも悪くもこれは変わることはないんですよね。
何者かになるのは「目的」ではなく「結果」
もし何者かになれなくて悩んでいる人がいるとすれば、それは才能に欠けているわけでも努力が足りないわけでもないと思います。
見方をちょっと変えるだけで、そもそも悩む必要すらないと気づくかもしれません。
現実に成功して有名になった多くの人は、「何者かになりたい」と思っていたわけではなく、夢中になってやっていたら結果的にそうなったというパターンですよね。
つまり、何者かになるというのは「目的」ではなくて「結果」なんです。
試行錯誤を重ねて行動しているうちに気づいたら何者かになっていた
こういう未来をイメージできていれば、何者を目指す過程で焦ったり他人からの評価を気にするよりも、『行動+実績』を積み上げることに目が向けられそうです。
何者でもない、平凡で幸せな暮らしを実現するために
私は普段のブログ記事で、英語を学んだりスキルを習得することをすすめています。
わりと意識高い風なことばかり発信しておきながら、実は「人生」というものに対してはかなり意識低めな人間です。
望むのはこれだけです。本当に、これが全てなんですよね。
なぜなら、「何者かになること」と「平凡な幸せ」を天秤にかけたときに、私の中では圧倒的に平凡でいいから大切な誰かと穏やかに暮らしていくことを選びたいからです。
これは夢でも願望でもなく、なんなら今すでに実現できています。
それなのに、この❝低めの目標設定❞を今後も続けていく理由ですが、それは「自分が生きる意味とは?」という究極の問いの答えにもつながってきます。
私が生きる意味とは?
→ 私が生きていたら家族が喜ぶから
本当は、「世界平和」とか「人の役に立ちたい」とか言えたらいいんですけど…現実はこんな感じです。
しょうもないと思われるかもしれませんが、私が生きている限りはこの「家族を喜ばせる」という目的は叶い続けています。私にとっては最大の生きる原動力です。
多くを求めることはしたくない
「何者願望」とか「承認欲求」というものは、自分の世界からできるだけ掃き出すようにしています。そのほうが常に幸せを感じていられるんですよね。
この幸せを末永く継続するための手段として、今はちょっと頑張ってスキルをつけて将来の焦りや不安を排除しているところです。
そして、もし私が知っていることの中に誰かが知らないことがあるならば、自分だけにとどめずに発信して共有していきたい。
そういう考えでブログ発信をしているだけであって、「何者かの称号」は私には必要ありません。
まとめ:何者願望に疲れたら肩の力を抜いて
「何者」が誕生した方が日本や世界にとって有益なのは間違いありません。
そういう人たちがイノベーションを起こすことで、社会が良い方向に動くからです。
野心や願望が強い人の方がそうでない人に比べて、実際に大物になる確率が高いのも事実だと思います。
ただ、それを目指す過程で苦しむ人が増えているのなら、少し肩の力を抜いて、目の前にあることだけを淡々とこなしてみるのもいいんじゃないかと思います。
どんな人生を幸せだと感じるかは人それぞれですが、幸せなんて自分の考え方次第でいくらでも見つけられます。
平凡な人生でも、自分にとって幸せなのであれば、それは「最高の人生」ですね。